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絶望の時代にどう生きるのか 運動ってやっぱり大事だ!

ボクが東電前に立ったわけボクが東電前に立ったわけ
(2011/09/01)
園良太

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私にとって3・11の記憶がほかの災害の記憶と大きく異なっているのは、まぎれもなく福島第一原発での事故があったからだ。もちろん、地震は怖かったしテレビやネットで繰り返し流される地震の被害には釘づけになった。しかし、それ以上に想像を絶する原発の過酷事故に愕然とし、言い知れぬ恐怖と絶望に思考が停止してしまった。3・11以前から原発には反対だったし、原発が危険なのはわかっていたつもりだった。だが、その一方でああまで簡単に過酷事故に至り「専門家」と呼ばれる人々が全く無力だとは思わなかったのだ。これからどうなるのか、放射能が降り続ける中でどんな生活が待っているのか?考えるだけで目の前が真っ暗になったし、すぐに原発に反対したりデモに行こうという気分には私はならなかった。そうした事故直後に日本中を包んだであろう恐怖と絶望は、「がんばろうニッポン!」という得体の知れない同調圧力となって私たちを押しつぶしていったし、そういうある種の自粛ムードは社会運動の側にも及んでいた。(少なくとも私はそうだった)

この本は、そうした震災直後の自粛、国難・挙国一致のムードの中からいち早く立ち直り、原発事故=人災に対する政府と東京電力の責任を問い、実際の行動に移していった活動家の記録である。筆者の園良太さんはフリーター労組ヘイトスピーチに反対する会、新宿ど真ん中デモなど様々なフィールドで活躍している活動家だが、この本を読むと震災当初から彼自身がどう感じて行動していったか知ることができる。彼自身も原発事故という過酷な事態に困惑し、自分のすべき行動を模索していたことが分かる。彼は、放射能への恐怖と向き合い、原発を止められなかった自分地震の無力を悔やみつつも政府・東電の責任を追及し、原発を止めるために行動することを選択する。3月18日にはわずか3人で東電前に出向き事故の責任を問い、「英雄はいらない。責任を取るべきは東電と政府だ」と声を上げるのだ。この動きは大手マスコミからは黙殺されながらもインターネットの力や海外メディアの報道などを通じて広がり、4月10日の高円寺デモや5月7日の渋谷、6月11日の新宿2万人デモへとつながり、脱原発への大きな世論につながっていく。

「やれることは全部やらないとね」という言葉に象徴される園さんの行動は、原発事故と放射能汚染という事態とこの先何十年いや何百年にもわたって向き合っていかなければならない絶望的状況を私たちはどう生きていけばいいのかという問いへの一つの答えになるだろう。起きてしまったことは取り返しがつかないが、原発をやめさせること、原発を生み出した私たちの社会の根源を変えていくことはできるし、又そうしなければならないのだ。震災や原発事故という未曽有の事態に打ちひしがれ絶望的になっている私たちにとってはこうした社会運動として人とつながり、よりよい未来をつかみ取っていくこと、それ以外に希望は無いのではないかと思う。

原発はたとえ事故を起こさなくとも、下請けの労働者(日雇い、外国人労働者)に被曝を強要する誰かの死を前提とするシステムであるし、またその犠牲となる命を差別選別するシステムである。現在福島第一原発で行われている収束作業とはまさに際限のない人命の犠牲である。それにもかかわらず、政府や財界は原発に固執し、さらには原発技術の輸出さえまだあきらめていない。現代資本主義を代表する政府財界はまったく現実対応能力を欠いている。いや原発を生み出した資本主義自体がもはやもうどうにもならなくなり、抜本的転換を求められているのではないか?脱原発を求める道は、差別を問い、私たちの社会の根源を問いなおす道につながるのだ。改めて、人とつながること社会運動や労働運動を続ける意味について考え直させる一冊だった。
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労働としての「教育」とは何か?

教育としての学校事務―子どもの学習発達保障のために教育としての学校事務―子どもの学習発達保障のために
(2010/06)
不明

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「教育」という言葉の響きは複雑だ。一般的に教育と言えば学校での教員と生徒の関係を思い浮かべるだろう。教員は子どもに対して教育という崇高な貢献をするがゆえに社会的に評価されもするし、また逆に教員であるが故に世間からのルサンチマンにさらされることもある。
だが、教育の場である学校自体は教員だけで成り立たっている訳ではない。学校は教員の生徒への教授、事務職員による諸事務、用務員の施設管理、給食調理等々の多様な労働によって成立し、それらがトータルに「教育」という営為を構成しているのだ。しかしながら、教員や世間一般にとって教育とは教員の専権事項であり、学校に存在するこれら多様な労働は教育ないし教員の補完物である、という認識が強いのではないだろうか?著者は長年、公立学校の事務職員として学校に勤務してきた経験から、こうした教員の補助労働とみなされがちな「学校事務」という分野について分析し、学校事務=教育の付属品という考えを批判的に捉えている。そのうえで、教員の下請けでもなく、また教育委員会を頂点とする行政の末端部分としてではなく、学校教育という一つの共同・協働をになう学校独自の存在として学校事務職員の労働を捉えようとしている。

こうした教授活動を中心とした狭義の教育(内的事項)と教育予算や施設環境の整備といった事柄(外的事項)は相対立するものとする発想が行政の中には存在し、教員以外の学校職員の非正規化や単純労働化が推し進められる原因ともなている。こうした、教育の外的事項と内的事項を対立的に統一的に捉え子どもの学習権を保障するというのが著者の立場だ。

私ももちろん、この点に大きな異論はない。しかし、現在公立の学校現場でとりわけ問題なのは教員の多忙化などに象徴される過重労働であり、そしてそれらを「解消する」とするがコストはかけたくないという行政当局による事務職員への業務負担増や非正規化、アウトソーシングである。これらは現在ある学校現場の問題をさらに困難にし、教育という労働をますます疎外する要因(教員も含む事務作業の増加、長時間労働など)ともなっているのだが、これらは学校現場では現在ほとんど問題化されない。一つには教育という行為が無前提に肯定されそれにかかわる労力に批判的視点が持ちにくいことがあるだろう。

教育という営為もまた労働の一つであり、そうである以上そこに横たわる疎外化や過重労働の問題と決して無縁ではない。著者は教育をさまざまな立場の学校職員の協働作業と位置付け、教育は教員の専門分野(もちろんその部分もあるが)に限定することを否定するものの、では教育労働の現状はどうか、という部分に物足りなさは残る。教育の内的事項と外的事項の統一を考えるのなら、協働を主体的に担えるだけの余裕やゆとりある職場環境づくりが不可欠だ。教育を担う学校事務職員の確立、とはその模索と闘いの中から生まれてくるのではないか?
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